「ありがとう」って、きれいな言葉だとは思う。
どこもかしこも「感謝」や「ありがとう」を言ったり書いたりすることが推奨されていて、最初はとくに疑問も浮かばなかったんだ。
でもふとした瞬間に、違和感を覚えた。
待ち合わせに遅れてきて
「待っててくれて、ありがとう」
見落としをカバーしてもらって
「対応してくれて、ありがとう」
間違いを指摘されて
「気づかせてくれて、ありがとう」
もちろん、感謝しているなら「ありがとう」と言うのは構わない。
ただ、なんだろう、このモヤモヤは…。
丸め込まれたような違和感は。

感謝は美しい。
美しいからこそ、いろんなものを覆えてしまう。
傷つけたことも。
待たせたことも。
雑に扱ったことも。
受け取ってばかりだったことも。
それでも最後に「ありがとう」とまとめれば、なんとなくいい話になる。
でも、
いい話にしたところで、誠実である証明にはならない。
「ありがとう」と言う方も、言われる方も悪い気はしない。
だから、ずっとこの小さな違和感を見過ごしてきたんだ。
でもあるとき、「お詫び」という美しい在り方を知ってから、その小さな違和感に気づけるようになった。
お詫びとは、まずはいったん目の前の事実や相手の感情を認めること。
そこに個人的な「解釈」や「言い訳」は必要ない。
ただ、目の前の事実を受け止め、それを表現する所作。

・約束の時間が10時だったこと
・自分が到着したのが10時30分だったこと
・相手は約束の場所に10時に着いていたこと
・相手が「気にしなくていいよ」と言ったこと
・自分が先方に送る資料の最終確認をしたこと
・先方から内容が違うと連絡が入ったこと
・連絡を受けたのが同僚だったこと
・自分が休みだったこと
・同僚が先方から要望を聴き、対応したこと
・先方から厳しく注意を受けたこと
・お客様から名前が違いますと指摘があったこと
・それを受けて修正したこと
さらに、ここに相手のそのときの心情も汲み取ったうえで、「お詫び」を表現する条件が成立する。
言葉にしてしまうと、「申し訳ない」「ごめんなさい」などの言葉に集約されてしまうけれど、お詫びに至るまでの動きは、とても奥深くて繊細な世界だったりする。
そして、
大前提にお詫びがあるから、そのあとの「謝罪」も「感謝」も初めて心がこもるものだ。
昔、詫びる=謝罪だと思っていたわたしは、
「わたし、悪くないのになんで謝んなきゃいけないの!!」
と、本気で思っていました。…恥ずかしいです。
でも、違った。
「お詫び」とは主観を排除して、まず目の前の事実を受け止めました、と表明することだった。
だから、ある意味、何物にもとらわれない心でないとお詫びはできなかったんです。
昔のわたしは「申し訳ありませんでした」なんて口に出したら負けだと思っていたくらい(笑)
でも「お詫び」って、自分の価値を下げることでもないし、相手の言いなりになることでもない。ましてや自己卑下でもないんです。
それが腑に落ちてから、接客などでも躊躇いなく
「そうでしたか、申し訳ございません」
と、お伝えできるようになっていました。
だって、事実を認めて、相手の心情を慮って表現することですから。
そこから初めて、対等な話し合いができる。こちらの主張も伝えることができます。お詫びをしたからといって、言いなりになるなんてことはあり得ません。
(余談:最近流行りの?カスハラなどはここで毅然とした態度をとっていました。お詫びを挟むと、相手の心理状態が健全かどうかもわかります)
ところで、こんな美しいかかわり方をすっ飛ばして、一緒くたに「ありがとう!」なんて言われた日には、腹が立ってしょうがない(笑)
それが、冒頭の違和感の正体です。
人と人がかかわるとき、事実だけでも、かなりの情報があります。それは、目に見える部分と目に見えていない部分も含めて。
さっきの例でいえば、待ち合わせに遅れた場合、相手はどう過ごしていた?何を思っていたか?は実際には見えません。その場にいないから。
同じように、自分が休みのときに、同僚がどんな対応をして、どんな心境だったかもわかりません。
そこをいかに想像できるか。思いを馳せられるか。
それができたとき、やみくもに「ありがとう!」なんて出てこないはず。
きれいな言葉を選ぶことより、そこで起きたことをちゃんと見ること。
こういう「誠実さ」って、立派な理念の中じゃなくて、案外こういう小さなところに出るんじゃないかと思っている。
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