「もっと」と求めたくなるのは“不足”なの?

ESSAY

「もっと欲しい」と思うのは、今あるものに満足していないから。

そんなことを、何度も耳にしてきました。

お金も、物も、成功も。

欲しかったものを手に入れても、人はそのうち慣れて、また次のものが欲しくなる。

だから「もっと」を追いかけるより、今あるものに感謝することが大切、ということですね。

たしかに心理学には、「快楽順応(ヘドニック・アダプテーション)」と呼ばれる現象があります。

カンタンにいうと

よい出来事が起きて幸福感が上がっても、時間が経つにつれてその環境に慣れ、その影響が弱くなっていくことがある、ということ。

 

でも最近、ふと思ったんです。

「慣れること」と「満たされていないこと」って、本当に同じなんだろうか?

たとえば、

大好きな人と一日一緒に過ごした。

ものすごく楽しかった。
とっても幸せだった。
心から満たされた。

そして次の日、

もう会いたい。

これって、“昨日で足りなかったから”なんだろうか?

わたしは、そうは思いません。

むしろ、「あんなに幸せだったから、また会いたい」ということだってある。

大好きなものを食べて「おいしい!」と思うから、また食べたい。

美しい花を飾って「きれいだな」と思ったから、またお花がほしい。

最高の旅行だったから、また行きたい。

一度満たされたら二度とほしくならないことだけを「満足」と呼ぶのなら、人間はずいぶん不思議な生き物になってしまう。

以前のわたしは、「もっとほしい」という言葉の中には、どこか「不足」があると思い込んでいました。

今の自分では足りない。
今の生活では足りない。
今持っているお金では足りない。

だから、もっと…ということ。

もちろん、こういう「もっと」もある。

でも、もうひとつの「もっと」があるんです。

 

100%満ちている。
だからこそ、もっとほしい。

今ある100%を否定して、別の100%に取り替えたいわけじゃない。

100%入っている器そのものを、もっと大きくしてみたい。

量を増やしたり、質を変えてみたり、まだ知らないバリエーションを味わってみたり。

不足を埋めるのではなく、満ちているものが、さらに拡がっていく。

そんな「もっと」もありました。

考えてみれば、

人間がよい環境にも慣れていくのなら、またほしくなること自体は、それほど不思議なことでもありません。

それなのに、

「もっとほしい」

「今あるものでは満たされていない」

こういう矢印を、いつから当たり前にしたんだろう。

もっと見たいなら、見る。
もっと行きたいなら、行く。
もっと愛したいなら、愛する。

そして、もっとお金がほしいなら、「もっとお金がほしい」でいい。

 

“もっと”と感じるたびに

「今に満足できていないのかな」
「執着しているのかな」
「不足から願っているのかな」

と、自分の欲望を取り調べなくてもいい。

「もっとほしい」と「満たされていない」。

このふたつは、必ずしもセットじゃない。

間に置いていた「=」を外してみたら、

満ちているからこそ、もっとほしい。

という選択肢が現れた。

 

大好きだから、もっと会いたい。
美しいから、もっと見たい。
楽しいから、もっとやりたい。
豊かだから、もっと味わいたい。

「もっと」は、欠けた場所から生まれるものだけじゃない。

満ちている場所から「もっとこの世界を見てみたい」と手を伸ばすことだってある。

わたしは最近、そんな「もっと」が、とても好きです。

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